イラスト1枚で王位継承戦編序盤を分かりやすく解説します【ハンター×ハンター】

一向に連載が再開される様子の無い「ハンターハンター」

「イマイチ分かりにくいし,再開されても…」と思っている人のために,継承戦編序盤の展開を分かりやすく復習できる記事を描きたいと思い筆を進めている次第だ.

そこで冨樫義弘が王位継承戦編で何をしようとしているのかを序盤の展開から考察し,イラスト一枚でそれを解説したいと思う.

以前の記事ではちょっと長々と書いてしまったので,今回は分かりやすく伝えることをモットーに描いていきたい.

前の記事で描いたことをかなりかみ砕き,希釈した感じにサクッと解説するので,詳しく知りたい方は前の記事を読んでいただきたい.



前記事:王位継承戦編では「チーム戦」がしたい,根拠はヒソカvsクロロ戦

 

継承戦編序盤をイラスト一枚で解説(できてますかね?)

一回前の記事で書いたこと言うのもアレなので,イラストで一目で分かるようにして見たがどうだろうか.(このイラストを見ただけで理解できた方は以下読まなくて大丈夫です.くどいだけなんで)

基本ここに描いてある通りなのだが一項目ごとに簡単に説明していきたい.

テーマは「個人と集団」だろう.

冨樫義弘という作家は対比構造を描くのが大好きだ.というよりも本当に面白い作劇を行うには主義や考えの対立を描くのが最も効果的であることを理解しているのだろう.

例えば,ヨークシン編ではクラピカやクロロ,ゾルディック家やパクノダなどを通して理屈と感情を切り離して考えられる人そうでない人の対比構造を描いていた.

今回の王位継承戦編では個人主義集団主義の対比が描かれていることはほぼ確実だろう.

個人は集団には基本的に勝てない

冨樫が読者に対して,「今回はこういう話がやりたいんです」というのを一番ストレートに,かつ説明として挿入したのがクロロvsヒソカだろう.

個人のチカラは基本的に集団のそれには太刀打ちできないというこの章の基本ルールをまず読者に説明するために,わざわざ継承戦本番が始まる前にこの話を持ってきたのだろう.伏線の意味合いもあったかもしれないが.

クロロがヒソカと闘う前に,「こういうやり方でお前を倒す」という説明を入れたうえで戦いを開始する流れが,

本編が始まる前に,この戦いを通して「この章では個人は集団には勝てません」とルール説明をしようとする冨樫の作劇法とメタ的にリンクしている部分もおもしろい.

※ここでいう集団とは「共闘説」なるものを肯定してるわけではない.あくまで一人でチームとして立ち回れるクロロを指す.詳しくは前記事の最後の方にて



第2王子カミ―ラについても書いているが詳しくは後述.

個人と集団を対比する演出

クロロの超合理的集団戦法によって説明された集団の合理性

だがその直後の展開で,ヒソカとはまた違う個人主義を持つ人物の活躍が描かれる.クラピカだ.

アホほど時間をかけて描かれた集団主義の考え方に対し,クラピカなりの「それでも一人で~」というアンサーと言わんばかりに挟みこまれた人差し指の鎖の展開.

大好きな対比構造をここぞとばかりに主要キャラの大見せ場で表現して見せる冨樫の手腕に脱帽である.

・ヨークシン編の復習も兼ねた展開

師匠との回想シーンでも触れられている通り,クラピカは集団戦が合理的であることなど100も承知だ.

それでも個人で戦うことを望むのは,前述のヨークシン編のテーマの通りクラピカが理屈と感情を切り離して考えられない人物だからだ.

つまり,この展開はヨークシン編で語られたクラピカとクロロの決定的な違いをもう一度おさらいする狙いがあったと考えられる.だいぶ連載期間空いたからそのための配慮かも.

個人と集団を効果的に描くための設定,人物配置

ここからは繋がっていないバラバラな要素を拾っていくだけだが,
個人,集団の立場を効果的に描いていくために要素や人物配置がこれまでの継承戦序盤の展開にたくさん散りばめていることが分かる.

個人編

きっと冨樫がこのキャラこそ掘り下げたいと思っているだろう人物がマチだ.

34巻の巻末コメントでも語っているように,序盤からから語られた彼女とヒソカの因縁が爆発することは間違いない.

また,相手が集団だろうが個人だろうが,それを陵駕する個のチカラを持ちジョーカー的な立ち位置で描かれようとしているのが第4王子ツェドーリニヒだ.ハンターハンター初の時間を操る能力者だ.

集団編

新しい概念としてジョイント型なるものが出てきた.他の能力者と協力することで真価を発揮する能力者のことだ.これが集団側の物語をこれから面白くしてくれることは間違いない.

特に今現在のクラピカの相棒ビルなんかはそれの最たるものだ.



また,どの登場人物もチームを組みたかっていることが本章の特徴として挙げられる.王子の護衛はもちろん,王子の施設兵,ヤクザ,ひいてはあの旅団員内でもチーム分けがされ,大なり小なり集団で行動することが合理的な状況になっていることは確かなようだ.

個人にも集団にも色がある

二括りに個人集団といっても,考え方や主義は千差万別だ.

仲間を巻き込みたくないが為に個人を貫くクラピカ,自分が一番強いという自負の基に動くヒソカ,とにかく自分の才能を悪用しようとするツェドーリニヒ,個人としての活躍を渇望する者たちは当たり前ながら行動原理は異なる.

冨樫は集団においても同じことを描こうとしている.一番興味深いのは第2王子カミ―ラ第1王子ベンジャミンの関係だ.

カミ―ラは自らが持つ死後の力を使った念能力で,ベンジャミンの施設兵団に殴り込みを行ったが,歴戦の勇士集まるベンジャミン陣営には成すすべなく返り討ちに合った.

だが,実はカミ―ラも恵まれない境遇の女性たちで構成された施設兵がバックについており,今後の展開ではこの両王子の施設兵団同士の集団VS集団が展開されることがほのめかされている.

個人では太刀打ちできない巨大な組織でも,こちらも組織で望めば勝敗は分からない」という展開になっているとともに,

男の論理(ベンジャミン軍)vs女の論理(カミ―ラ軍)といった構図にもなっている.


要は何が言いたいかというと,個人vs集団,集団vs集団,個人vs個人のどの構図であったとしても,それぞれの個人,その集団ならではの主義や考え方の対立強みや弱みを描いていくことが今回冨樫義弘がこの漫画を使って書こうとしている物語なのではないだろうか.

まとめ

最初に分かりやすく説明をすると大見え切った割にはまた長く回りくどい記事になってしまった.

王位継承戦編はどんどんいろいろな要素が増えてくるので,個人集団の対比の物語ということだけを頭に置いて,細かい情報に一喜一憂せずに読んでいくとちゃんと面白く読めると思う.

また新たな発見があったら記事にしていきたい.

【アイデンティティの再構築】未来のミライを解説&感想レビュー【ネタバレ】

細田 守 監督作品「未来のミライ」

公開された当初から賛否が凄く分かれてたこの作品.

「子育て観を押し付けられているように感じる」とか「話が子供だましでつまらない」とか主にこういう感想が凄く多い.

でも筆者的には割と好きな作品だったりする.(私が今現在,人生においてこの作品のテーマをもろに感じる時期なせいもあるかもしれないが)

そこで今回はこの映画が言いたいことを解説するとともに,レビューをしていきたいと思う.

 

目次

  • アイデンティティの喪失と再生の物語
  • まるで絵本のような話運び
  • 親の見てないところで子供は育つ
  • 早い話が「細田版となりのトトロ」

 

アイデンティティの喪失と再生の物語

この映画,つまりは

「クンちゃん」という唯一無二の「家族のアイドル」が,そのアイデンティティを失い,
「ミライちゃんのお兄ちゃん」という新たな存在意義を見つける話
なのである.

妹の「ミライちゃん」が生まれることによって,「お父さん」と「お母さん」からの愛を失ったように感じてしまったクンちゃん.

だがクンちゃんは物語の中で,未来からやってきた「ミライちゃん」の導きによって次第に自分が何者なのかを認識していくことになる物語だ.

よくこの映画の批判としてある
「子育て観や家族のカタチを押し付けられているように感じる」という感想は,長子が避けて通れない宿命子供の成長,親の成長はこうあるべきという説教クサい話として取られてしまう場合が多いからだと感じる.




だが,実際この映画の主張はそんなことでは無く,価値観の押し付けなどでは無い(パンフレットを読んでれば分かる).もっと人生において普遍的なこと,「アイデンティティの喪失と再構築」なのである.

皆さんも,「自分自身が何者なのか」「今,どうあるべきなのか」といった疑問を人生において何度も抱いたことがあるだろう.この映画のテーマはまさしくソレだ.

子供視点で描かれることや,家族が舞台になっていること自体は,このテーマを描くためのひな形に過ぎない.今現在,細田監督にとって一番タイムリーな「アイデンティティの喪失と再構築」の物語を子育てに見出したというだけなのである.

まるで絵本のような話運び

子供にとって絵本とは,1位,2位を争う重要なメディアだ.

小さいころに抱く恐怖,喜怒哀楽,それらを絵本から学ぶことは多いはず.劇中のクンちゃんも絵本にかなり影響を受けている様子だった.

この映画はよく「子供だまし」のような批判を受けることがあるが,それはまさしく
この物語が「絵本」だからだ.

ご先祖様や過去の母親との出会い,その一つ一つからクンちゃんは大事なこと学んでいく.子供にとって,それは一冊一冊の絵本から喜怒哀楽を学んでいくこととほぼ同じこと.
だからこそ物語は敢えてできるだけ断片的に,オムニバスのように進んでいく.

子供視点で描かれるからこそ,子供が感受しやすいカタチの物語として作られているのだ.

親の見てないところで子供は育つ

「子育て観,家族間の押し付け」みたいな批判が多いことと,決してそれが目的ではないことは前に述べた通りだが,

この映画の中で唯一,監督が「子供とはこういうものだ」と明確に主張していることがある.見出しの通り,

「親の見てないところで子供は育つ」ということだ.

この映画の中で,現在の「お母さん」や「お父さん」は完全に外野だ.
少なくともクンちゃんに対してはあまり親らしいことはしていないように感じる.結局成長したのはミライちゃんの導きとは言え,クンちゃんの自力なわけだし.

だが,この映画の中で一番大事であるといっても過言ではないシーンでは,「お母さん」が一番重要な役割を担っている.

・中盤の展開

中盤,過去のお母さんに会いに行くシーンがある.
昔のお母さんはイタズラッ子で,親がいないスキにクンちゃんを誘って散らかし放題.

「お母さん」のお母さん,つまりクンちゃんのおばあちゃんが帰ってきたとたん,案の定怒られる始末.そして現在に戻り,お母さんは過去にイタズラして怒られたことをおばあちゃんと一緒にアルバムを観ながら振り返る.
その中にはなぜか回想に登場しなかった弟,つまりクンちゃんのおじさんの存在が語られる.


コレ,つまり完全に今のクンちゃんと同じ境遇なのだ.

お母さんは弟が出来たころ,クンちゃんと同じように「兄弟コンプレックス」を持ち,親に構ってもらえないうっぷんをイタズラで晴らしていたのだ.

だから「弟と仲が良かった」みたいな話題になりながらも,子供のころの回想には弟は出てこない,クンちゃんの目には自分勝手な理由で,親に迷惑をかける幼い母親の姿だけが映る.



・無限の可能性で見て,聴いて,成長する

親や先祖,未来の自分自身の「弱さ」をタイムスリップで垣間見ながら成長するSF的な話として描かれるが,

これは細田監督が子育てを通して感じた,子供の無限の感受性のメタファーだ.

実際の子供を見ていてもそうだ.周りの環境や親の考え方,かすかな言動から物凄い吸収力で自我を形成していく.

つまり
「大人には理解の及ばない世界(親の見ていないところ)でこそ子供は爆発的に成長する」という子供の可能性を描いた物語なのである.

未来の妹として出てきた「ミライちゃん」が何者だったのか,なぜタイムスリップが出来たのか,といったことは劇中で何も説明がない.それは全て子供にしか理解できない世界での出来事だからだ.

敢えて説明しないことこそ,監督が自ら感じた「子供の世界」の証明なのだ.

早い話が「細田版となりのトトロ」

「こういう話どっかで見たなぁ」と思ったが,
「となりのトトロ」だ.

というかこの映画を見て初めて,トトロが「親の見てないところで子供は育つ」を描いた話なのだということに気付いた.

かなりトトロを意識した部分はあるかもしれないが,逆に言えば子育てを経験した親の「子供観」の行きつく先は同じだということなのかもしれない.

まとめ

解説というよりは,「『押しつけがましい映画』『親バカが作った映画』というようなそんな作品ではなく,明確なテーマを基に作られた作品なんだっ」

という映画の擁護記事のようになってしまったが,本当に「アイデンティティを取り戻す」と「子供の感受性の可能性」を見事にマッチさせた素晴らしい映画なのは確かなことだ.

この記事で述べたことを心にとめてもう一度,この映画を見る機会を得ていただければ幸いです.

【誰も気にしてません】一人映画,行くべき&恥ずかしくない理由

「映画を一人で見に行くことが苦手」


思っている人,たくさんいるんではないだろうか?

今回は映画は一人で見に行っても,全く恥ずかしくもないし,むしろ楽しめる理由

をQ&A形式で述べていきたいと思う.



Q.恥ずかしくない?

A.あなたのこと,誰も気にしてませんからァァァ!!

 

ハイ確信ですね,もうコレが分かってもらえれば後はどうでもいいって思ってます.

恐らく映画に一人で行けないと言っている人にとってはこの部分がネックなのではないだろうか?

でもアナタが一人で劇場に入ってこようと,

誰もアナタを気にしてなどいない.

「一人で映画館に行けるか」とかの話題に関係なく,他人はあなたの行動などに関心は無い.

もしアナタだったら劇場に入ってくる人間ひとりひとりに注意など払うだろうか?「誰か入ってきたなぁ」程度には思うかもしれないが,それで終わりだろう.

早い話が

「ひとり~」が出来ない人は周りを気にし過ぎなのだ.

Q.みんなで行った方が楽しいでしょ?

A.鑑賞中は皆ひとりです.

 

そもそもの話として,

映画を鑑賞している最中に「他の誰か」は必要ない.

映画館で見ている最中,
一緒に見に来ている人と何かを話すだろうか?
感想でも言い合うだろうか?

鑑賞中は私語厳禁なのだから,誰かと語らいあいながら鑑賞することなどまずありえない.誰か気にしながら見る必要などどこにも無い.

映画館に足を運ぶ最大の魅力は,
話に没頭できることだ

大音響や暗室,大画面によって家で見ているときには味わえない没入感の中で鑑賞することが映画館の魅力なのではないのだろうか.

映画の世界にどっぷり浸る,その体験の最中に誰かの存在を感じながら鑑賞するなど邪魔以外の何物でも無いと思うのだが気のせいだろうか.

Q.そんなのできるのお前だけだよ

A.「一人映画」は大勢いる

こちらのサイトにTwitter上での声が載っている

「一人映画は恥ずかしい?ネットで大きな論争に」

これらの声を見れば分かるように一人で映画を見に行く人なんて大勢いる.
「人と一緒に行動する」ことが美徳であるという精神が根付いてしまっている.

誰にも縛られず行動することに目を向けてみると,違った世界が見えてくるかもしれない.

まとめ

一人映画に行くべき理由,恥ずかしくない理由について述べてみた.

皆さんもういい大人なのだからいい年こいて「一人でアレできない,コレできない」なんて言っているよりも,一人でできることに目を向ける方が今後の人生のためにもなると思う.

ちなみに僕は高校生のころからやってた.


この記事が,「一人映画」を前に足がすくんでいる人の助けになればと思っています.

SWEP9邦題「スカイウォーカーの夜明け」に決定,どこからツッコめばいい?

「スターウォーズEP9」の邦題が「スカイウォーカーの夜明け」に決定した.

「ダサい」「長い」「今さら?」

といろいろ総ツッコミを入れたくなるが,今一度グッとこらえて色々考えを述べていきたい.

また恐らくSWがディズニー傘下になってからやりたかったであろう,ユニバース化に失敗(個人的にだが)してるようにみえること

行き当たりばったりの制作体制がもはや漫画の週刊連載化していることについて考えていく.

 

「スカイウォーカーの夜明け」ってダサくないですか?

別にいい,感じ方なんて人それぞれだ.カッコいいと思う人もいるだろう.
僕は思わないが(大人げねぇ).



「Rize of skywalker」

という原題が出た時から薄々思っていた
「これの邦題は確実にダサくなる」と

そして案の定だった.邦題はダサくなるというジンクスは昔からあるが,その魔の手がスターウォーズにまで伸びてくるとは…。

そもそも現代からしてダサい.
「ジェダイ」だとか,「帝国」「フォース」みたいな作中固有名詞を題名に入れることはこれまでにもあった.それ自体を否定するつもりは無い.

ただ,「スカイウォーカー」って,なんか違う.
なぜそう思うのか,世界観が小さく見えるのだ

もちろん作中において「スカイウォーカー一族の栄華と衰退」は常に物語のメインストリームである.「帝国の栄華と繁栄」と共にあった.

そのルーツをめぐり,原点に立ち戻る,何かそんな話になることはだいたい予想はつく.だけどメインは宇宙の調和だったり,フォースの安定の話だったり銀河規模の話だ.
けっして「スカイウォーカー一族のイザコザが全ての現況で,それが解決すれば万事解決なんだよ」ってことでは無い.


「スカイウォーカ―一族の話なんです!!」

と副題にまで描いてグイグイ主張されると,「話のスケール,ちっさ」っとなる.
そういうことって文字にしちゃダメな気が.映画なんだからさぁ.

世界がスカイウォーカー中心になり過ぎ

このEP9の題名からも思うことだが,
「スカイウォーカーを探せ」「スカイウォーカーは過去の遺物」だとか,2015年からの「レイ3部作」はスカイウォーカーの話に寄り過ぎだ.

さっきと同じことを言うがスケールが小さく見えるのだ.

「フォースの覚醒」の公開時点でどういう方向性だったかは知らないが,スカイウォーカー一族ありきの話にしなければならなくなった現況は完全に悪名高いライアンジョンソンの「最後のジェダイ」からだ.

「ルークの教育ミスで弟子が暗黒面に奪われた」とか,「スカイウォーカーを葬らないと俺はベイダーに成れない」とか,あざと過ぎるぐらいにそっちの話に持っていこうとする

ライアンジョンソンがEP8を脚本まで掌握して好き勝手やったせいで,EP9までシナリオの方向修正を余儀なくされていることは想像に難くない.

EP8で「過去の伝説不要論」みたいなことしこたま描いた後に,
「スカイウォーカーの復活」ってw

要は下に書いたようなことが起きてるってことだ.

まるで漫画の連載みたい

読者の顔色をうかがいながら話の方向性を修正していく,それが漫画の連載というものだ.

このやり方,状況に応じて話を改編できる反面,通しで見るとそこまで話の完成度は高くないことも事実.

ディズニー制作体制のスターウォーズがやっていることは正にコレだ.

・ルーカスのSWでは

「シリーズものの映画なんてみんなそんなもんでしょ」と言われるかもしれないが,そういう問題では無い.

EP1~3,4~6では各々の3部作の大体の話のオチや流れは決まっていたという.例えばアナキン3部作のオビワンとアナキンの戦い,「溶岩の惑星での師弟対決」というプロット自体は「ファントム・メナス」制作前から決まっていたようだ.

つまり,ルーカスの中にあったスターウォーズ世界は全て一つの作品として,ほぼ完成していたということだ.

・漫画化とユニバース化の真似事

それに対してディズニー傘下のSW,漫画の連載に例えたように
EP7~9の3部作は最初から流れやオチがが決まっていたわけではなく,ディズニーの茶々入れによって行き当たりばったりで進んでいるということだ.

「まるで漫画の連載」っとバカにしてはみたが,これは今流行りの「ユニバース化」をディズニーがSWにも取り入れようとした結果だ.

ユニバース化とは,マーベルやハリウッド版ゴジラシリーズなどのように,次々にスピンオフ映画や大集合映画を生み出せるように,一つの世界や設定を共有してシリーズを制作していく体制である.

恐らくディズニーはこれがやりたかった.

ルーカスが自主制作体制の中で守り抜いてきた,緻密なプロットを基に制作していくことよりも,後の興業やシリーズ化を優先するために,行き当たりばったり,制作体制ブレブレで作っていくことを選んだのだ.



ディズニーの経営陣はあまりスターウォーズファンを舐めない方がいい.

こんな事情,大体ファンも分かってるから.

ドキュメンタリー映画「ピープルvsジョージルーカス」などで語られたように,もはやスターウォーズという映画は一個人の物ではない.

ましてここまであからさまにキャラクタービジネスの道具にされて,ファンがキレないとでも思っていたのだろうか.








「商売人に茶々入れされて,変に変えられるくらいなら,自分の金で自分で作るわ」

という態度を長年変えてこなかったルーカスの気持ちが本当に良く分かる.権利を売った瞬間案の定なんだから.

まとめ

エピソード9の邦題が決まったということでその感想と新シリーズに関して思うことを描いてみた.

もうどこのブログでも描きつくされてるような愚痴になってしまったが,そうなるのも仕方ないのが「ディズニーの権利ビジネス」の道具にされているスターウォーズの現状だ.

金儲けが資本主義の大前提であることは分かっているがこれではあんまりだ.

僕たちが憧れたスターウォーズの神秘性が金儲けのために失われていく気がするのは気のせいだろうか.

ワンパンマン2期最終回(24話)感想,ガロウ編はアニメ化に向いてない

先日最終回を迎えたアニメ,ワンパンマン2期

「え,これが最終回なの?」っていうくらいにサラッと終わったように思えるし,個人的に最終回感が全然無いなぁ感じてしまった.

今回は最終話の感想を語ると共に,前から描こうと思っていた,「ガロウ編はアニメ化に向いていないのではないか」ということについても話す.

よろしければワンパンマンに関する前記事
画よりも「熱」を再現しろ,ワンパンマン2期が酷いワケを考えた【演出編】

も併せて観ていただきたい

24話の感想

・アニメーションの躍動感

正直,過去の記事でも散々言ってきた,「作画だ,演出が」とかこの期に及んで言うつもりは無い.

むしろその辺は,最後の3話あたりは凄く頑張ってたし,カッコいいと思う場面もいっぱいあった.例えば,22話のガロウとガトリングチームの戦いの序盤

太い輪郭線と丁寧なアニメーションでガロウの雄たけびが描かれるとともに,

ヒーローたちに襲い掛かるシーンでは背景動画を使ってガロウとヒーローたちの間合いが一気に詰められる描写が描かれた.

止め画を多用していた初期のころとは完全に一戦を画す熱量でガロウの活躍が描かれる.

続く23,4話でも彼とバングやジェノスとの戦いは大迫力だった.
特に24話の師弟同士での流水岩砕拳の打ち合い

最終回の見せ場はこの師弟対決に集約されていたように思える.

ただ流石に,最後のサイタマのマジ殴りの1期OPオマージュはクサかった.「そういうことじゃないんだよなぁ」っていうね.

とにかく最終回付近での丁寧なアニメーションの数々には,アニメーター達の底力を感じるし,前の記事でもJCのプロデューサーが言ってた「原作に忠実な描写への拘り」と躍動感あふれるアニメーションの両立が出来ていた.





だが,24話が最終話としてモノ足りるものだったかどうかは別の話だ.

・切り方が中途半端

中途半端,この一言に尽きる.

皆さんはあの最終回を見て「大団円だなぁ」という感想を持っただろうか.

僕は持たなかった.ムカデ長老がガロウとの戦いに割り込んできて,ジェノス,バング・ボンプ兄弟が苦戦しているところにサイタマが割り込んできて殴って終わり.
ガロウは怪人協会に拉致されて続きは3期で,みたいな.

早い話が
「みんな続きがあることは知ってるだろうから,中途半端で終わるけど勘弁してねっ」ていうオチだったわけだ.

これ,一つのアニメ作品としてまとめ方が雑すぎると思う.

そもそも
ムカデ長老を倒すこと自体,このガロウ編においてそこまで重要なことでもないし肝心のガロウはムカデ長老のクダリでは置いてけぼり.

で,誰がフィーチャーされるかと思いきや,ご存じ噛ませヒーロー,ジェノスの

「俺では勝てないのか...」

みたいな使い古された展開がまた描かれるだけ,何度やるのこのクダリ,もういいよ.


とにかく,
こんなところで切られても何のカタルシスも感じねぇよ
そいつ倒したからって何にもハナシ解決してねぇよ

ってところで終わっちゃったからどうしても中途半端感は否めない.これに関しては一概にアニメの方が悪いわけではないが.

原作ガロウ編構成の問題

ここからはアニメ版ガロウ編の構成の問題について書いていく.だいぶ憶測が入っているのであしからず.

まず,大前提として原作のガロウ編(村田版)がまだ中盤というタイミングで,アニメ化してしまったのがそもそも痛かった.

2期アニメは最初からムカデ長老のクダリで終わらせるつもり,というかむしろ
2期アニメの最終回として持ってくるために村田版のムカデ長老との戦いが設定された

ということはだいたい予想がつくが,このタイミングで一旦切るという構成が雑すぎる.先ほども述べた通り,ムカデ長老の話で終わっても明らかにキリが良くない.



恐らく,村田版ワンパンマンのガロウ編以降はアニメ化前提で
制作会社や編集部,作者がネゴシエーションを取りながら連載を進めていることは想像に難くない.

それならもうちょっと原作の段階で,アニメの方が上手くまとめられるようなキリの良い構成にできなかったものだろうか.


「とりあえず,2期では最後まで描き切れないんで,アニメ最終話用の見せ場を原作でも作っときましょう」みたいな,そういう交渉が裏であったのではないかと勘ぐってしまう.

ガロウ編はアニメ化に向いてない

ココからは2期アニメを通して思った,ガロウ編がアニメ化に向いていないのではないかということについて理由と共に述べていく.

・ワンパンマンは群集劇

意外とあまり語られないが,ワンパンマンは紛れもなく群集劇,群像劇である.

群集劇とは
メインのストーリーと共に,登場人物の内面や葛藤が展開の中で描かれ,それが話の大筋に大きく影響を与えていく物語のことである.

ワンパンマンでは,メチャメチャ強い主人公が設定されていながらも,サイタマ自身は余り描かれず,事実上の主人公はそれぞれの中編エピソードごとに異なる

ジェノスやバング,ジーナスや無面ライダーなど,彼らの内面や葛藤,生き様などが話の中心になっており,彼らこそが主人公.それがワンパンマン1期に当たる部分の基本構造だった

話の構造的には浦沢直樹の「YAWARA!」に近いかもしれない.


・例えば深海族編

このエピソードの主人公は紛れもなく無面ライダーだ.

イナズマックスやスネック,ジェノス,その他シェルターに避難したヒーローが次々に倒れる中,無面ライダーは倒れても倒れても立ち上がる.

動機や覚悟,パワーなどで何かしらの欠点を持つヒーローたちが深海王にかなわない中,明らかに一番弱い無面ライダーが

「勝てる勝てないじゃなく,ここで立ち向かわなきゃならない」
というだだ一点のみで怪人に立ち向かい,人々の心を撃つ.

つまり,「ヒーローとは何か」というテーマを他のヒーローと対比しつつ,無面ライダーの生き様を通して描かれたのがこの深海族編なのである.

・ガロウ編は群集劇としての魅力が半減

前述のように,「ワンパンマン」はそれぞれの中編ごとに主人公が入れ替わり立ち代わりし,その内面と共に各編のテーマが描かれる漫画であることが分かる.

ではガロウ編ではどうだろうか?

結論から言ってしまうとガロウ編はほとんどガロウしか描かれないのだ

群集劇,つまりその名の通り,多くの登場人物の思惑や内面が描かれることで話が進行していくことが,ガロウ編より前のワンパンマンの魅力だった.

ところがガロウ編になると,戦闘中の内面描写,モノローグ,回想などほとんどがガロウ視点である.

しかも,だいたい同じ視点でずーっと話が続き, 長ければ長くなるほどガロウの怪人哲学は説教クサくなる

つまり,それまでの中編サイズの群集劇という分かりやすく,テンポのいい話運びが売りだったストーリーが,割と単調で冗長な展開が中心となってしまったのだ.

・冗長に拍車をかける村田版

村田版ガロウ編は何をやっているのかというと,

前述したように恐らくアニメ化が前提のため,アニメ映えする展開をやたらと挿入する.


これは今までの村田版におけるオリジナル展開などでも説明が着く.金属バットとガロウの戦い,童帝とフェニックス男との戦い,フラッシュと「里」の忍者の戦いなどがそれだろう.

だが見ての通り,明らかに冗長さに拍車を掛けていることは言うまでもない

怪人協会アジトに潜入した後のS級ヒーローたちの活躍はONE版ではサラッと描かれることによって,割とテンポよく読み飛ばす程度に話を追えた.

だが,村田版では一人一人の活躍を濃密に描きすぎるために,ONE版をあらかじめ読んで知っている身からすると,一向に話が進んでいない感覚に襲われ,「長いわ..」となるのである.

ガロウ編がアニメに向かない理由まとめ

・ガロウ視点の説教クサいテーマにより長期化,群集劇の魅力がなくなる

・村田版はアニメ化を意識した改編でさらに冗長化,本末転倒な結果に

正直,こんな作り方してたらガロウ編のアニメが完結するのか分かったもんじゃない.

まとめ

24話の感想とガロウ編がアニメ化に向かないと思う理由について述べてみた.

正直総合的に1期には何一つ勝てていないアニメだとは思うが,前作のプレッシャーの中で凄く頑張ってはいたと思う.JCはよく頑張った.だからマッドハウス戻ってきて

大切なことは言葉にならない『海獣の子供』ネタバレ【感想レビュー】

巷で話題の「海獣の子供」

圧倒的なビジュアルと難解な内容で賛否両論のこの映画.
観に行くか迷ってる人のために何がそんなにいいのか全力でプレゼンするつもりで描いてみる.

あらすじなんかは公式サイトかどっかで見てほしい.敢えて描くまでもないので.

テーマ:大切なことは言葉にならない

結論から言ってこの映画のとても大きな主張のひとつ

「大切なことは言葉にならない」

これが分かればそれでいいのだ

正直,この映画は話がメチャメチャ複雑だ.ネタバレをしまうと星の誕生の物語のようだ
簡単に言えば,「海」と「空」という星の因子を持った少年たちが,地球から星となって宇宙に旅立つプロセスを描いた話だ.

だけどボンヤリ見てる分にはこんなこと簡単には分かりゃしない.

分かる人には分かるんだろうけどあまりに情報量の多い絵面がずっと続くのでだんだん理解しようとするのに疲れてくる

「画は綺麗だけど,このシーン何が言いたいんだ…」
「気持ち悪い」
「なんでこんな唐突に不気味なシーンが…」


ホント終始こんな感じなので後半はシートにふんぞり反って観ていた.

だけどこの「何これ…」の感覚に陥ること,これがこの映画の主張そのものである.

本当に生々しく,ダイレクトに感じる光景,それは言葉にならないのだ.

・「何その感情論…」と思ったアナタ

ここまでの文章だけ読んでたらそう思うのも当然だ.だけどこの映画,見てもらうと分かる.

言葉ではなく,とことん絵のチカラのみで,生命誕生の神秘を描き切ろうとしているのだ.

海流の表現

魚の大群のド迫力
彼らが時折見せる「未知」の恐怖
主人公たちが見せる生命の探求
その過程に存在する残酷な現実


これら全てが殆どの説明なしにアニメーションだけで表現されるのである.

先ほど述べた「星の誕生の物語」であるということが理解できなかったとしても,この物語が生命誕生のプロセスを描いた物語であることは「感じることはできた」はずである.

(セリフでもある程度補完してたけど.魚や海流は明らかに受精のメタファーだったし)

「感じることができた」.生命の尊さ,命のリレー,大切なことを表現するために敢えてアニメーションで感じてもらう

この作り手の拘りこそがこの作品のテーマ

「大切なことは言葉にならない」

そのものなのである.まさに「考えるな,感じろ」を体現した映画だ.

このテーマ,映像作品そのもののあり方をも表現していると思う.
物語をわざわざ映像に起こす意味,それは映像で感じてもらうためだ

セリフが大事なら小説でも,文章でも,字面で伝わる媒体を使えばいい.でもこれはアニメーションであり,映像作品だ.ビジュアルで伝えるチカラ.それが一番大きくあるべきなのだ.

これから見に行く皆さんは感じながら,もう観た皆さんも感じていたことを思い出しながら余韻に浸ってみることをおススメする.

テーマとリンクする琉花の成長

・琉花と周囲の関係

本作の主人公・琉花はぶっきら棒な少女である.

部活の最中に友達にケガをさせてしまっても,上手く謝り方が分からない.

謝ろうとあれこれ言葉を考えるものの,友達から逃げたい本心から「かくれんぼ」を繰り返してしまう.

また家族とも上手く接することが出来ず,酒浸りの母親,仕事人間の父親とも上手くいかない様子.

玄関のビールの空き缶,靴など,「家の顔」ともいうべき玄関の様子を通してこの家族の不仲がたびたび描かれる.

序盤の音が立たないように空き缶を袋に入れるシーンとかは,何故か心がキュッとなる.

話はそれるが
こういう描写一つ一つが筆者の学生時代を見ているようだった.

どうしても素直になれない10代という時代.そのモヤモヤが全て集約されているようで,もどかしく,そしてどこか懐かしい体験が再び襲ってきたようだった.

・夏の出来事と琉花の成長

ぶっきら棒な少年少女の成長物語,といえば良くある話だが

この映画ではテーマと少女の成長が上手くリンクしている.

再三述べた「大切なことは言葉にならない」だ.



「祭り」に立ち合うことで,命は壮大過ぎる過程と連鎖の中で紡がれているものであることを

そしてすべては海と空からのメッセージであり,決して言葉などでは無く,感じることでしか受け取れないものであることを知る.

物語の最期,二つの重要な描写で,琉花の成長が締めくくられる.

友との和解
命の音

これら二つはどちらも言葉ではなく,琉花が「感じること」で描写されている.

ぶっきら棒だった少女は言葉に頼らず心を通わせ,へその緒を切る音を聴くことで生命の継承を再び目の当たりにする.

主人子・琉花の成長と,作品のテーマ,この二つが完全にリンクしている構造が本当に美しく,また難解だった物語が全て彼女の成長の物語として完結させる作り手側の配慮も見て取れる.

まとめ

原作未読だったり,パンフレット未購入だったりして,話を完璧に理解できていない部分もあるので,まとまりのないレビューだが,

とにかく「大切ことは言葉にならない」これだけが分かればいい映画だと思う.この記事がまとまりがないのも言葉にならないからってことで許して.

あとこの映画を見た後に米津玄氏の公式youtubeチャンネルに上がっている主題歌「海の幽霊」のMVを聞いてみて欲しい.映画を見た後では聞こえ方がマジで違う.

原作ファンの彼が作った曲ということで,映画本編では端折られた「椅子」のエピソードをイメージした曲となっているようだ.

とにかく凄まじい映像体験だった.映画館に足を運ぶ価値のある映画であると思うのでぜひ鑑賞してほしい.

【超サイヤ人は邪道】鳥山明は超サイヤ人が嫌いなのか

「超サイヤ人なんて邪道じゃ」- 15代前の界王神

僕はこのセリフを漫画で見たときから「鳥山明は超サイヤ人が嫌い」なのだと信じてやまない.

これに関しては完全に僕の憶測でしか無いのだが,超サイヤ人という存在が,若き時代の鳥山明にとってある種コンプレックスになっていたのではないかと考えている.

なぜそう考えるのかまとめてみた.

超サイヤ人は「言いなり」の象徴

鳥山明は連載当時,ドラゴンボールを早く辞めたがっていたことは有名な話だ.噂でも都市伝説でもなく紛れもない事実だ.

結論から言うと,周りにあーだこーだ言われながら操り人形のように描くのを嫌がる原作者をしり目に,長期化する連載の大きなファクターとなっていたのが超サイヤ人なのではないかと思うのである.

結構最初の方から辞めたかった

意外と早いうちから鳥山が想定した物からはかけ離れた物語になっていた.

初期の頃のユーモアあふれる修行編も,少年漫画界に新たな旋風を巻き起こした天下一武道会もすべて編集部からのテコ入れの産物だったようだ.

アニメ「ドラゴンボールZ」の「Z」は「早くDBを終わらせたい」という作者の願いでアルファベットの最期を持ってきたという逸話もある.

そして戦いと強さのインフレの連続の末に誕生したのが超サイヤ人という設定だ.この頃になると,サイヤ人は青天井的に強くなるという,いかにも長期連載に便利なギミックまで盛り込まれ,原作者の辟易が伝わってくる.

超サイヤ人が登場したこの辺から,急加速的に展開の飛躍,強さのインフレが起こったことはだれの目にも明らかだ.

超サイヤ人主体の後半戦

そんな設定的にもビジュアル的にもカッコいい万能薬が出てきてしまうと,当然ながら少年たちが見たがるのはこの金髪ガチムチの活躍だ.そして編集部もこの機を逃さず鳥山に要請しただろう

「超サイヤ人を出せ」

ここから先はもう説明するまでもない.

激動のセル編

結局「人造人間の設定は何だったの?」って思ってしまうくらいに,孫親子とベジータ親子の大運動会に発展したセル編

この頃になると戦いとあらば必ず変身といわんばかりに,標準状態で超サイヤ人が出てくるようになる.「超サイヤ人としての強さがさらに限界を超える」というクダリが延々と描かれた印象しかない.いったい何回限界を超えるのだろう.

だが,フリーザ編あたりからほのめかされていた悟空の息子・悟飯の天才設定が上手く使われ,後の世代交代に繋がる流れは中々上手くやったものだと思う.この時にもキーワードとなったのは超サイヤ人だったが…



行き当たりばったりの魔人ブウ編

どうにかセル編ラストを上手く調理して,世代交代の話に話に持ち込んだ魔人ブウ編.新たな主人公・悟飯の活躍が描かれるかに思われた.だが結局読者の反応は芳しくなかったのだろう.

しばらくすると死んだ親父の悟空がしゃしゃり出てきて,超サイヤ人3という,作劇場全く必要のない設定を持ち込み息子の見せ場を全部かっさらっていった.結局最後まで超サイヤ人が云々カンヌンをやりながら物語は終わる.

だが「いいなりでは終わらん」という原作者最後の抵抗が見られたのが,このブウ編後半の展開だ.詳しくは後述.

個人的に,超サイヤ人2はそれ以前からほのめかされていた悟飯のポテンシャルを示す上で必要な設定だったと思っているが,3は完全に絵面のためだけに編集部の横やりによって誕生したものだと考えている.

鳥山明,最後の抵抗とその名残

ここまでいかに原作者が超サイヤ人という設定を持て余していたかが良く分かる.

さてここからが「鳥山,超サイヤ人嫌いなんじゃないか論」の根拠になる部分である.

唐突に再フォーカスされる悟飯

それまで悟空やベジータが話の中心だったのに,老界王神の力を借りて再び主人公としての活躍を見せる悟飯.この時の姿,ご存知の通り超サイヤ人ではない

wikipedia情報だが,パワーアップした悟飯が負けたのは「連載中の人気投票で超サイヤ人3が1位だったから負ける展開にせざるを得なかった」とのこと.

つまり超サイヤ人3にデカい顔させないための展開だったのに,人気投票で負けたからやむなく後退させた」ということだ.

・「超サイヤ人なんて邪道じゃ」

老界王神が自身の能力開放能力で悟飯をパワーアップさせたときに発したセリフだ.もうなんていうか,この発言が当時の鳥山明の代弁であることは確実だと思う.

元々悟飯主人公となって活躍することが予定されていたブウ編

でも無視できない読者,編集,TVのスポンサーの意向よって,ブウ編になっても描かされ続けた,超サイヤ人主体の強さのインフレ,戦いの連鎖

当時のそういった情勢に対する鳥山のささやかな抵抗がこのセリフに見て取れる.

理想の設定,超サイヤ人ゴッド

2013年に公開された映画「神と神」では,悟空が新たな対戦相手「破壊神ビルス」に対抗するために,新たな設定「神の気」を使う,

超サイヤ人神(ゴッド)

という形態に変身する.身なりは普通の悟空よりも華奢な体型になり,髪色こそ赤だが,髪型は通常の悟空と一緒だ.

実はこの形態でビルスと戦っている最中,たびたび悟空は普通の形態に戻ってしまう.超サイヤ人でも何でもない普通の黒髪の悟空だ.

だが不思議なことに普通の悟空に戻った後も,ビルスと互角に戦い続けるのである.このことについて鳥山と作中のビルスの発言をすり合わせると

「アレは悟空が神の気を自らの体内に取り込んだ状態である.ビルスとの戦いの後,無駄に気を消費する超サイヤ人2や3ではなく,普通の状態で戦うことの方が合理的であると気づいた.もう2や3に変身することは無い.

という旨が語られている.

この設定,悟空が超サイヤ人にならなくてもいい理由を作っているようにしか見えない.何年たっても超サイヤ人は,鳥山にとっては周りの言いなりでやってた頃の仕事の象徴なのだろうと,どうしても勘ぐってしまう.

DBは鳥山にとって「昔の仕事」

突然だが,大人に成って久しぶりに友達に合って

「中学の頃やってたあの面白かったギャグやってよ」

って言われたら皆さんは喜んでやるだろうか.やるかどうかは別として,絶対にやりたくないはずだ.

大物作家の苦悩をこんな例えに置き換えるのは失礼かもだが,鳥山明にいつまでも「ドラゴンボールやってください!!」「新しい超サイヤ人考えてください」って仕事を振るのは,本人からしたらこういう感覚を覚えるのかもしれない.

ルーカス,富野由悠季,大友克洋.

鳥山に限ったことでは無い.大物作家は皆,いつの時代も「昔の仕事」の固定概念,レッテルを張られてモノづくりを続けてきた.

人より大きな想像力と創作意欲を持って生まれたからこそ,その大きな可能性で様々な表現に挑戦したがる,それが作家という生き物だ.

大友克洋が「SHROT PEACE」のインタビューを受けているときに言っていた.

「下手な原画を直してるだけなんて,仕事をしているのか直しているのか分からない」

「新しい企画を出すたびに蹴られる,みんな『AKIRA2』をやってほしいんでしょ,やらないけど」

「新しいことをやりたくて仕方がない」



人は変わる.生きているその時々で挑戦したいこと,活躍したい場所は同じじゃない.彼らが直面する問題は意外と誰にでも当てはまることかもしれない.

まとめ

「鳥山明にとって超サイヤ人は,『操り人形』だったころの象徴なのでは?」
というテーマで語ってみた.

連載当時,そして連載後の超サイヤ人の動向から,DBに対する鳥山明のスタンスが見て取れるのは本当に面白い.

最後の方は少し脱線気味だったが,言いたいことは, もうそろそろ鳥山をDBから解放してあげてもいいんじゃないかと筆者は考えているということだ.ではまた.

【ネタバレ】不二子の「母性」と男たち,LUPIN THE Ⅲ 峰不二子の嘘 感想レビュー

ハードボイルドなルパンと一味の活躍を描く「LUPIN THE ⅢRD」今回はその最新作「峰不二子の嘘」を鑑賞してきたのでレビューする.

本記事ではこのシリーズのテーマ,「男とは何か」についてのみフィーチャーしたい.
その他の部分はまぁいつも通り最高のクオリティだったので敢えてスルーする.

 

 「LUPIN the ⅢRD」が 目指す切り口

全2作では次元,五ェ門にフィーチャーした本シリーズ.今作ではファン待望,時には味方,時には悪女の峰不二子がメインキャラとして物語が描かれる.

それと同時に二人のゲストキャラと不二子の関係を通して,シリーズ共通のテーマ「男とは何か」を全2作とはまた違う切り口で表現している.

ズバリ,母性と男

この二つの関係を通して,「男とは何か」が描かれる.

・ざっくりストーリー紹介

とある企業から5億ドルを横領した男の基で,秘書として働いていた不二子.だが企業が雇った殺し屋ビンカムによって,男は殺害され,5億ドルのありかを知る息子ジーンと共にが企業から狙われることに.今までとは違う「子供」という難敵を前に奔走する,不二子とルパン一味の活躍が描かれる.

不二子の「母性」と男たち

ルパン一味の面々を順番にフィーチャーしていく,本シリーズ.前述の通り,このシリーズの裏のテーマは「男とは何か」を描くことである.でも今回の主人公は題名の通り峰不二子.

じゃあ今作ではどうやって男の本質を描き出したか.

この記事では不二子と二人のキーパーソンの関係によって描かれた「男の子」として男性像について考えてみたいと思う.

・不二子に「母」を求めるジーン

物語のカギを握る登場人物ジーン,まだ子供でありながら父が残した大金を使って,親の仇であるビンカムを討つようルパンたちに依頼する.

不二子に関わる男性としていつもと違うのは,まだ色仕掛けの意味も分からない子供であるという点である.天涯孤独となったジーンに対して「母親になってあげる」と彼に近づき大金のありかを聞き出そうとする不二子.だがビンカムに対する復讐心は硬く不二子にも心を開かない.

僕だったらこんな大人のお姉さんに言い寄られたら,一瞬でゲロッってしまうだろう.
普通はそうだ.きっと

・不二子に初恋する敵,ビンカム

不二子編ということもあり,敵でさえ彼女の魅力に取りつかれてしまう.

前2作の敵キャラ同様,「組織」によって作られ,生まれたときから奴隷のような扱いを受けてきたビンカム.

しつけ役のような女性にムチと木の実で餌付けされ,さながらサーカスの猛獣ようである.おそらく女性との触れ合いは生まれてこの方しつけ役の女のみであり,「母」と呼べるものを知らずに育ってきたことは想像に難くない.

そしてこのビンカムの不二子に対する心境の変化こそがこの物語のカギなのである.

・ジーンとビンカムの共通点

この二人のキャラ.全く違うもののように見えて実はすごく似ている.

二人とも母を知らず,女を知らないのである.

不二子と関わることで彼女に「母」と「女」を求めるようになるのである.女性にとってはあまり理解できないかもしれないが,これはまさに男の子の特徴だ.

色仕掛けが通用せず,頑なに復讐を誓っていたジーンは次第に不二子に母親を重ね,女性としても意識し始める(金庫の番号を記していた時).

ビンカムも序盤のカーチェイスや不二子によるスキンシップの影響で徐々に女性として彼女を意識していき,ある発言から母としても彼女を求めていたことが分かる.

母親=初恋

・ビンカムの初恋,そして母への思い

結論から言うと男の子にとって
母親=初恋なのである.

生まれて初めて触れ合う女のカタチ.母の影をいくつになっても忘れることのできない生き物,それが男だ.

劇中でビンカムとジーンが求めたものは,母親という形を取った初恋に他ならない.

今作で重要なのは,「理想の女性像=母親」という男の不偏性を通して,このシリーズのテーマ「男とは何か」を描いていることなのである.

あれだけ荒々しく不二子を「女」として求めたビンカムが,しつけ役の女を「お前はもういらない」と絞め殺す描写には,「初恋の相手」として,そして「母親」として相応しくないという無意識に彼が感じた二つの愛の共通項が表れている.

・男は「母親」を忘れられない

母性的に描かれる不二子の描写は,男が忘れることのできない母親像を彷彿とさせる.

よく「息子は母親に似た人を連れてくる」なんて話を聞くが,それは事実としてあり得ることであるし,初めて感じた異性との触れ合いを男が忘れられないことの表れである.

今回出てきた二人の男性キャラが不二子に求めたものはそんな男が女に求めるもの,すなわち「母親のごとき優しさと包容力を兼ね備えた人」であり,それを理解し,利用する「峰不二子の嘘」が彼らの初恋に終わりを告げる

初恋とは往々にして叶わないものである.この映画を見てどこか切ない気持ちにさせられる所以は,僕たちが少年時代に見た初恋の儚さとリンクを感じ取るからだろう.

まとめ

ということでLUPIN THE Ⅲ 峰不二子の嘘」をレビューしてみた.次元ほどの衝撃は正直なかったが,久々大満足の体験が出来る作品だった.

ただのネタバレみたいなことはしたくないので,あまり触れなかったが,組織の全貌が徐々に明らかになる展開などもあり,シリーズのファンは必見の作品といえる.

描きたりなかったらまた追記するかも,ではまた.

1ヶ月でTOEIC700点 → CD聞いてりゃとれるって話

何かと高い点数を持ってるとちやほやされるTOEIC.タイトル詐欺のようで申し訳ないが,僕が持ってる点数は695点である.ではこのその点数を取るためにかかった期間はどれくらいかというと実質1か月未満である(ちなみにその1か月前の僕の英語レベルは高校で配られた単語帳を覚えてるか怪しいレベル).

早いとと思うか,遅いと思うかは人次第だがこの記事を見て高得点が欲しいと思っている人達にとっては早いと感じる期間なのではないだろうか.


今回はTOEICで700点ぐらいを1か月で取るには具体的に何をすればいいかを記事にまとめた.気休め,謙遜,おためこがし抜きで誰でもできるので興味のある方は目を通してほしい.

初心者は黙ってリスニングだけ勉強しとけ

まず初心者のTOEIC学習において大切なことは,

「取れるとこだけ勉強する,取れないところは勉強しない」だ

これはTOEICに限らない話だ.時間内に大量の問題を解かなければならないタイプのテストにおいて,すべての設問に関してバカ真面目に勉強しテストに臨もうとする人がいるが,こんなのは初心者のやることでは無い.もちろん慣れてくればすべての設問に目を通すことも必要だが,少なくともTOEICで700点を取るためには必要のないことだ.

この記事を読んでいる皆さんがやらなければならないことは点数の取りやすい設問だけ確実にモノにすることである.ずばりそれはリスニングセクション(part1~4)だ.

 

なぜリスニングセクションで点数が取りやすいか

・すぐに耳が慣れるから

そりゃ最初の頃は何を言っているのか分からなくて当然だ.聞き流しを繰り返していても断片的に単語が聞き取れるくらいでサッパリ意味不明である.でも,一生懸命意味を理解しようと意識しているうちになんとなく全体的にざっくりどんなことを言っているのかが分かってくるようになる.実はTOEIC学習においてこの「ざっくり理解」はとても重要なのである.詳しくは後述する.

・短期間で成果出やすいから

リーディングセクション比べればリスニングセクションなんてヌルゲーだ.単語も設問の内容も簡単.加えて前述の通り耳がすぐに英語音声に慣れるので,かなり短期間で成果が出やすい.ただ単に点数が欲しいのであればリスニングセクションを重点的に抑えることが合理的なのだ

 

リーディング(part5~6)は点数アップに時間がかかるから

リーディングセクションはリスニングセクションに比べ,頭に入れなければならない知識量が多く,またテストを解く際の回答テクニックの習得などに時間がかかるため短期間で点数アップに繋がりにくいセクションなのだ.

 

・すべての問題に目を通せるから

初心者がリーディングセクションの試験時間である1時間以内に,全ての問題を解き切ることはほぼ不可能と言っていい.それに対してリスニングセクションはアナウンスに従って問題が進行するので誰もがすべての問題に目を通すことが出来る

ここで僕が実際にほぼ700点を取った時の試験の際の時間配分を見てみよう.

リーディングは時間配分を自分で考えなければならず,内容もヘビーだ.part5と6にかなりの時間がかかってしまい,part7はその問題数の割にほとんど時間を使えていないことが分かる.初心者(この当時の僕も含めて)にとってリーディングセクションは,全ての問題に目を通し,1問1問着実に正答していくということは難しい大問なのだ.

そして何より着目してほしいのが最後の塗り絵,誰もがやったことあるマークテストあるあるだ.0からたった1か月間で700点を取るにはリーディングセクションの回答の制度を犠牲にする必要があるため仕方のないことだと割り切ってほしい.逆に言えば,TOEIC700点はこんなことをしている回答者でも取得できるものであることをしっかりイメージしておいてほしい.そうすれば自分もできるかもって思えてくるでしょ?

じゃあ具体的にどう勉強するか

ただリスニングのCDの音源を聞くだけでも,その意味を理解しよう続けていれば,内容の理解は次第にできるようになる.でもどうせなら効率的にやった方がいい.

その時おすすめなのがリスニング学習の王道,シャドーイングだ.

・シャドーイングとは?

聞いたことない人もいると思うので一応補足する.簡単に言うなら音源を聞きながら,その文章を読むこと(可能ならば声に出して,音源の後に追って読む.)である.TOEICの市販の問題集などの回答には,付属のCD音源のスクリプトがそのまま載っている.

CD音源を聞きながらそのスクリプトを読む.「こんなことして何の意味があんの?」と思う人もいるだろう.僕も高校の頃はそうだった.だけどこれをやるだけで英語の音源は飛躍的に聞けるようになる.前述の「ざっくり理解」がとんでもないスピードで出来るようになるのだ.マジで.

音源は耳から入ってくるものなので,聴覚でしか理解できない.だがそこを視覚情報と自分の声で補足してやることで,スクリプトがどういう構造で出来上がっているのかが格段にイメージしやすくなるのだ

・シャドーイングはリーディングにも効果的

そして音源に合わせて文章を読まなければならないので,シャドーイングは速読の訓練にもなるのだ.

聴く,読む,両方において「ざっくり理解」できることで,文章の内容把握力がとんでもないレベルで向上する.

空き時間でシャドーイング

個人的に生活の中での空き時間を使ってシャドーイングを行っていれば,700点に届くために必要なリスニングの点数,大体400点代は行けると思う.

電車に乗る時間(別に黙読でもいい),風呂入ってるとき,普段YouTubeサーフィンに使っているどーでもいい時間,もちろん勉強時間をしっかり決めてやってもいい.

とにかく0から始めるには英語音源に耳を鳴らすことが重要だ.そのためには生活の一部として英語音源に触れる時間を常に作ることが重要なのである.

「大変そう」と思うかもしれないが,全くそんなことない.僕も700点を取るためにやってた1ヶ月間,一日のシャドーイング時間は2時間あるか無いかくらいだった.普通にサボってた日もあった.別に努力してた記憶もないのでその程度でも行けるということだ.

リスニング以外の勉強について

・リーディングは「詰め込み」でいい

リーディング学習については1か月の内,最後の1週間のみを使って,解く練習と,答え合わせを繰り返すだけでいい.これについてはアドバイスも何もない.皆さんも学生時代に問題集を一通り解いて,答え合わせをして,もう一度解いて,を繰り返してパターンを覚えるという勉強はしてきただろう.アレをやるだけでOKだ.

ただし,本記事が掲げる主義は徹底して最初に述べた通り

「取れるとこだけ勉強する,取れないところは勉強しない」だ

なので多少イレギュラーだが下記のアドバイスもしておく.1か月で700を取るためなら多少の合理主義は厭わないという方だけ下を読んでほしい.

 

・part7は勉強するな

ただでさえ点数が伸びにくいリーディングセクション,part5~7.

part5と6は正直1週間詰込み勉強をするだけでしっかりと点数が取れるようになる.だがpart7の点数を0から1か月や1週間という短期間であげるのは中々難しい.そんなことに時間を割いているくらいなら,リスニングの精度向上と,part5と6で確実に点数を取るための詰込みをした方が合理的だ

なのでpart7は勉強せずにぶっつけ本番で望むことも一つの手段であるということを覚えておいて欲しい

そのため,本番のリーディングを解く後半1時間はpart5と6を解く時間をしっかりと確保し,残った時間でpart7の問題に取り組む,目を通せない問題は塗り絵,という方法で回答することをおススメする

イルミも言ってた「勝てない相手とは戦うな」だ

こんなふざけた勉強でも700点は余裕,ただし

TOEICなんてのは所詮テストだ.

点数取ることだけが目的なら,ここで紹介してきた方法だけで十分に700点ごとき取得可能だ.そのためならマークテスト方式の盲点をついた方法で点数を稼ぐのだって一つの方法である.

だが本記事で紹介した方法では700点代前半までが頭打ちであるということを理解して頂きたい.ここで僕の実際のスコアを見てもらう.

だいぶ昔の結果だがお気になさらず

695点を取得した時のTOEICのアカウントのキャプションだ.リスニングに力を入れていたため,当然ながらリーディングは目も当てられないレベル.つまりリスニングだけできて,リーディングはできないという点数の取り方ではこれ以上は伸びないということである.恐らく取れて750点が限界だ.

もう一度言う,本記事はあくまで1か月で700点が欲しい人向けだ.

「もっと高い点数も将来狙っていきたい」という方にとっては,本記事の方法は長い目で見てもあまり良くないのでおススメはしない.へんな勉強のクセがついても当方責任は取りかねます.

まとめ

点数を取るだけなら700点なんて余裕であるということがお分かりいただけただろうか.だがやはり最後にも書いた通りだが,やっぱり目指すなら800,900点を視野に入れた勉強を最初から丁寧にやってみた方がいいかもしれない.

本記事は短期間で念の基礎を習得するための下法のような方法であることは重々理解した上で実践してほしい.

画よりも「熱」を再現しろ,ワンパンマン2期が酷いワケを考えた【演出編】

誰に聞いても明らかに評判の良かったアニメ「ワンパンマン」1期.それに対してネットのあちこちで「クオリティが下がった」と話題の2期.
いったい何がネット民にそう言わしめるのかを個人的に考えてみた.
(ちなみに著者も2期はそんなに好きじゃない)

まあ結論から言ってしまうと1期の良かった部分がことごとくオミットされててしまっているからだと思う.本記事では主に演出面について語る.

作画,演出が「普通」になった

テレビアニメの作画としては限界突破レベルの描写が魅力だったワンパンマン1期.多少の造形の崩れなんて気にしないといわんばかりのアグレッシブな演出,書き手の魂の叫びが伝わってくるような情熱的なアクション描写の線.もう毎週毎週すごく楽しみだった.

では2期の作画はどうだろうか.結論から言って普通だ.日本で今やってるアニメの標準的なレベルだと思うし,力の入っているシーン何かは凄く頑張ってんなぁと思う.

だけど悪く言えばそれだけだ標準的なレベル,頑張ってるとこは頑張ってる,つまり裏を返せば手抜いたなって部分はもろバレだったりするってことだ.

特にアクションシーンで止め画を多用するのは本当にやめた方がいい.ジェノスvsソニックなんかは流石に見ていられなかった.

だけど作画で手を抜いても,動画ソフトのエフェクトとかで簡単に騙せちゃうこのデジタルアニメ時代のスタンダードだと思わなくもない.良くも悪くも今風な造りのアニメだと思う.

 

1期はまさに「創作」,原作の「熱量」を再現

1期に関しては作り手の表現者としての実力が凄まじかった.まず,破壊のカタルシスをしっかりと理解した人間が作っていること明らかだ.1話からそうだった.ビル破壊,爆発,土煙,「殴られた怪人の体表の波打ち」など,怪人の脅威やサイタマのパンチの威力などを演出する上で重要な破壊,ダメージエフェクトが丁寧に描写されるとともに,それをいかんなく活かすための特撮的カメラワークなども披露され制作サイドの拘りが見て取れる.これらが1期の魅力の半分を占めているといっても過言ではない.

さらに演出面では,キャラクターが常に「演技」をしているのが本当にすごい.「声優の演技が~」みたいな話ではない.

例えば,進化の家に乗り込む件で,阿修羅カブトとジェノスが戦う展開において.防戦一方のジェノスがサイタマの基にぶっ飛ばされるシーンに注目してほしい.満身創痍のジェノスに対してサイタマが常に「そんなに強いか?」といった表情でリアクションを取っているのである.これこそ普通は止め画でもいいはずなのにだ.

他に例を挙げれば,桃源団を前に立ち向かう無免ライダーのシーン.参上の口上を吐く前にトレースしたかのような滑らかな動きで自転車を止める描写が差し込まれる.彼の几帳面な人となりが伝わるとともに,ワンパンマンのシュールギャグ漫画としての側面が表現される巧い演出だ.

とにかくアクション作画が凄いだけでなく,作画によって紡がれる細かい演出が「ワンパンマン」という漫画を,そして登場キャラクターそのもののアイデンティティを引き出しているのである.

 

2期は「作業」,何も伝わってこない

対して2期はこういうところを凄く作業的にやっている印象が強い

アクション,会話などシーンに関わらず基本止め画が多様され,人物の人となりが細かく描写されている部分はあまり見受けられない.もちろんキングの顔面蒼白などは描かれるが,それはアニメーションとしての表現ではなく,原作である村田版から来ている要素だ.

個人的に2期になってから登場人物がみんな魂の無い人形のように見えるのはそういった細かい表現が足りていないからだと思うし,作り手がキャラクターや漫画の特性をしっかり理解せずに作っているからだと思う.

 

制作サイドの言い分

Yahoo!ニュースの「アニメ質問状」という記事で,2期のチーフプロデューサーなる人が,「細部まで原作に忠実な演出、絵作りにこだわって」みたいなことを言ってたけど,

こんなこと言う時点で1期スタッフが何にこだわって制作していたかを理解していない.
1期が再現していたのは原作の絵柄なんかじゃない,「熱量」だ

もしかしたら2期スタッフは
原作に忠実 = アニメーション表現の怠慢,と勘違いしているのかもしれない

 

もっと単純な話,1期が凄すぎた.

2期の作画や演出のネガティブチェックをしててもキリがないので,もっと一般的な話をしよう.
1期が凄すぎたせいでアニメ「ワンパンマン」への期待値が上がり過ぎたのだ.

間違いなく,1期を堪能した人達にとってワンパンマンとは「神作画コミコミのコンテンツ」だ.そしてそれは1期のタッチ,つまり前制作会社の色で作られたワンパンマンのことを指している.別の制作会社が作ったあんまり動かないアニメーションで描かれるワンパンマンが見たいわけではないのだ.そもそも論として需要と供給が合っていないのである.

まとめ

ということでワンパンマン2期が詰まらない理由について,作画,演出面について着目して語ってみた.今後「テンポ,話運びが悪い」「ガロウ編がそもそもアニメに向いてない」とかについても記事を出していきたいと思うのでよかったら見てほしい.