ワンパンマン2期最終回(24話)感想,ガロウ編はアニメ化に向いてない

先日最終回を迎えたアニメ,ワンパンマン2期

「え,これが最終回なの?」っていうくらいにサラッと終わったように思えるし,個人的に最終回感が全然無いなぁ感じてしまった.

今回は最終話の感想を語ると共に,前から描こうと思っていた,「ガロウ編はアニメ化に向いていないのではないか」ということについても話す.

よろしければワンパンマンに関する前記事
画よりも「熱」を再現しろ,ワンパンマン2期が酷いワケを考えた【演出編】

も併せて観ていただきたい

24話の感想

・アニメーションの躍動感

正直,過去の記事でも散々言ってきた,「作画だ,演出が」とかこの期に及んで言うつもりは無い.

むしろその辺は,最後の3話あたりは凄く頑張ってたし,カッコいいと思う場面もいっぱいあった.例えば,22話のガロウとガトリングチームの戦いの序盤

太い輪郭線と丁寧なアニメーションでガロウの雄たけびが描かれるとともに,

ヒーローたちに襲い掛かるシーンでは背景動画を使ってガロウとヒーローたちの間合いが一気に詰められる描写が描かれた.

止め画を多用していた初期のころとは完全に一戦を画す熱量でガロウの活躍が描かれる.

続く23,4話でも彼とバングやジェノスとの戦いは大迫力だった.
特に24話の師弟同士での流水岩砕拳の打ち合い

最終回の見せ場はこの師弟対決に集約されていたように思える.

ただ流石に,最後のサイタマのマジ殴りの1期OPオマージュはクサかった.「そういうことじゃないんだよなぁ」っていうね.

とにかく最終回付近での丁寧なアニメーションの数々には,アニメーター達の底力を感じるし,前の記事でもJCのプロデューサーが言ってた「原作に忠実な描写への拘り」と躍動感あふれるアニメーションの両立が出来ていた.





だが,24話が最終話としてモノ足りるものだったかどうかは別の話だ.

・切り方が中途半端

中途半端,この一言に尽きる.

皆さんはあの最終回を見て「大団円だなぁ」という感想を持っただろうか.

僕は持たなかった.ムカデ長老がガロウとの戦いに割り込んできて,ジェノス,バング・ボンプ兄弟が苦戦しているところにサイタマが割り込んできて殴って終わり.
ガロウは怪人協会に拉致されて続きは3期で,みたいな.

早い話が
「みんな続きがあることは知ってるだろうから,中途半端で終わるけど勘弁してねっ」ていうオチだったわけだ.

これ,一つのアニメ作品としてまとめ方が雑すぎると思う.

そもそも
ムカデ長老を倒すこと自体,このガロウ編においてそこまで重要なことでもないし肝心のガロウはムカデ長老のクダリでは置いてけぼり.

で,誰がフィーチャーされるかと思いきや,ご存じ噛ませヒーロー,ジェノスの

「俺では勝てないのか...」

みたいな使い古された展開がまた描かれるだけ,何度やるのこのクダリ,もういいよ.


とにかく,
こんなところで切られても何のカタルシスも感じねぇよ
そいつ倒したからって何にもハナシ解決してねぇよ

ってところで終わっちゃったからどうしても中途半端感は否めない.これに関しては一概にアニメの方が悪いわけではないが.

原作ガロウ編構成の問題

ここからはアニメ版ガロウ編の構成の問題について書いていく.だいぶ憶測が入っているのであしからず.

まず,大前提として原作のガロウ編(村田版)がまだ中盤というタイミングで,アニメ化してしまったのがそもそも痛かった.

2期アニメは最初からムカデ長老のクダリで終わらせるつもり,というかむしろ
2期アニメの最終回として持ってくるために村田版のムカデ長老との戦いが設定された

ということはだいたい予想がつくが,このタイミングで一旦切るという構成が雑すぎる.先ほども述べた通り,ムカデ長老の話で終わっても明らかにキリが良くない.



恐らく,村田版ワンパンマンのガロウ編以降はアニメ化前提で
制作会社や編集部,作者がネゴシエーションを取りながら連載を進めていることは想像に難くない.

それならもうちょっと原作の段階で,アニメの方が上手くまとめられるようなキリの良い構成にできなかったものだろうか.


「とりあえず,2期では最後まで描き切れないんで,アニメ最終話用の見せ場を原作でも作っときましょう」みたいな,そういう交渉が裏であったのではないかと勘ぐってしまう.

ガロウ編はアニメ化に向いてない

ココからは2期アニメを通して思った,ガロウ編がアニメ化に向いていないのではないかということについて理由と共に述べていく.

・ワンパンマンは群集劇

意外とあまり語られないが,ワンパンマンは紛れもなく群集劇,群像劇である.

群集劇とは
メインのストーリーと共に,登場人物の内面や葛藤が展開の中で描かれ,それが話の大筋に大きく影響を与えていく物語のことである.

ワンパンマンでは,メチャメチャ強い主人公が設定されていながらも,サイタマ自身は余り描かれず,事実上の主人公はそれぞれの中編エピソードごとに異なる

ジェノスやバング,ジーナスや無面ライダーなど,彼らの内面や葛藤,生き様などが話の中心になっており,彼らこそが主人公.それがワンパンマン1期に当たる部分の基本構造だった

話の構造的には浦沢直樹の「YAWARA!」に近いかもしれない.


・例えば深海族編

このエピソードの主人公は紛れもなく無面ライダーだ.

イナズマックスやスネック,ジェノス,その他シェルターに避難したヒーローが次々に倒れる中,無面ライダーは倒れても倒れても立ち上がる.

動機や覚悟,パワーなどで何かしらの欠点を持つヒーローたちが深海王にかなわない中,明らかに一番弱い無面ライダーが

「勝てる勝てないじゃなく,ここで立ち向かわなきゃならない」
というだだ一点のみで怪人に立ち向かい,人々の心を撃つ.

つまり,「ヒーローとは何か」というテーマを他のヒーローと対比しつつ,無面ライダーの生き様を通して描かれたのがこの深海族編なのである.

・ガロウ編は群集劇としての魅力が半減

前述のように,「ワンパンマン」はそれぞれの中編ごとに主人公が入れ替わり立ち代わりし,その内面と共に各編のテーマが描かれる漫画であることが分かる.

ではガロウ編ではどうだろうか?

結論から言ってしまうとガロウ編はほとんどガロウしか描かれないのだ

群集劇,つまりその名の通り,多くの登場人物の思惑や内面が描かれることで話が進行していくことが,ガロウ編より前のワンパンマンの魅力だった.

ところがガロウ編になると,戦闘中の内面描写,モノローグ,回想などほとんどがガロウ視点である.

しかも,だいたい同じ視点でずーっと話が続き, 長ければ長くなるほどガロウの怪人哲学は説教クサくなる

つまり,それまでの中編サイズの群集劇という分かりやすく,テンポのいい話運びが売りだったストーリーが,割と単調で冗長な展開が中心となってしまったのだ.

・冗長に拍車をかける村田版

村田版ガロウ編は何をやっているのかというと,

前述したように恐らくアニメ化が前提のため,アニメ映えする展開をやたらと挿入する.


これは今までの村田版におけるオリジナル展開などでも説明が着く.金属バットとガロウの戦い,童帝とフェニックス男との戦い,フラッシュと「里」の忍者の戦いなどがそれだろう.

だが見ての通り,明らかに冗長さに拍車を掛けていることは言うまでもない

怪人協会アジトに潜入した後のS級ヒーローたちの活躍はONE版ではサラッと描かれることによって,割とテンポよく読み飛ばす程度に話を追えた.

だが,村田版では一人一人の活躍を濃密に描きすぎるために,ONE版をあらかじめ読んで知っている身からすると,一向に話が進んでいない感覚に襲われ,「長いわ..」となるのである.

ガロウ編がアニメに向かない理由まとめ

・ガロウ視点の説教クサいテーマにより長期化,群集劇の魅力がなくなる

・村田版はアニメ化を意識した改編でさらに冗長化,本末転倒な結果に

正直,こんな作り方してたらガロウ編のアニメが完結するのか分かったもんじゃない.

まとめ

24話の感想とガロウ編がアニメ化に向かないと思う理由について述べてみた.

正直総合的に1期には何一つ勝てていないアニメだとは思うが,前作のプレッシャーの中で凄く頑張ってはいたと思う.JCはよく頑張った.だからマッドハウス戻ってきて

【超サイヤ人は邪道】鳥山明は超サイヤ人が嫌いなのか

「超サイヤ人なんて邪道じゃ」- 15代前の界王神

僕はこのセリフを漫画で見たときから「鳥山明は超サイヤ人が嫌い」なのだと信じてやまない.

これに関しては完全に僕の憶測でしか無いのだが,超サイヤ人という存在が,若き時代の鳥山明にとってある種コンプレックスになっていたのではないかと考えている.

なぜそう考えるのかまとめてみた.

超サイヤ人は「言いなり」の象徴

鳥山明は連載当時,ドラゴンボールを早く辞めたがっていたことは有名な話だ.噂でも都市伝説でもなく紛れもない事実だ.

結論から言うと,周りにあーだこーだ言われながら操り人形のように描くのを嫌がる原作者をしり目に,長期化する連載の大きなファクターとなっていたのが超サイヤ人なのではないかと思うのである.

結構最初の方から辞めたかった

意外と早いうちから鳥山が想定した物からはかけ離れた物語になっていた.

初期の頃のユーモアあふれる修行編も,少年漫画界に新たな旋風を巻き起こした天下一武道会もすべて編集部からのテコ入れの産物だったようだ.

アニメ「ドラゴンボールZ」の「Z」は「早くDBを終わらせたい」という作者の願いでアルファベットの最期を持ってきたという逸話もある.

そして戦いと強さのインフレの連続の末に誕生したのが超サイヤ人という設定だ.この頃になると,サイヤ人は青天井的に強くなるという,いかにも長期連載に便利なギミックまで盛り込まれ,原作者の辟易が伝わってくる.

超サイヤ人が登場したこの辺から,急加速的に展開の飛躍,強さのインフレが起こったことはだれの目にも明らかだ.

超サイヤ人主体の後半戦

そんな設定的にもビジュアル的にもカッコいい万能薬が出てきてしまうと,当然ながら少年たちが見たがるのはこの金髪ガチムチの活躍だ.そして編集部もこの機を逃さず鳥山に要請しただろう

「超サイヤ人を出せ」

ここから先はもう説明するまでもない.

激動のセル編

結局「人造人間の設定は何だったの?」って思ってしまうくらいに,孫親子とベジータ親子の大運動会に発展したセル編

この頃になると戦いとあらば必ず変身といわんばかりに,標準状態で超サイヤ人が出てくるようになる.「超サイヤ人としての強さがさらに限界を超える」というクダリが延々と描かれた印象しかない.いったい何回限界を超えるのだろう.

だが,フリーザ編あたりからほのめかされていた悟空の息子・悟飯の天才設定が上手く使われ,後の世代交代に繋がる流れは中々上手くやったものだと思う.この時にもキーワードとなったのは超サイヤ人だったが…



行き当たりばったりの魔人ブウ編

どうにかセル編ラストを上手く調理して,世代交代の話に話に持ち込んだ魔人ブウ編.新たな主人公・悟飯の活躍が描かれるかに思われた.だが結局読者の反応は芳しくなかったのだろう.

しばらくすると死んだ親父の悟空がしゃしゃり出てきて,超サイヤ人3という,作劇場全く必要のない設定を持ち込み息子の見せ場を全部かっさらっていった.結局最後まで超サイヤ人が云々カンヌンをやりながら物語は終わる.

だが「いいなりでは終わらん」という原作者最後の抵抗が見られたのが,このブウ編後半の展開だ.詳しくは後述.

個人的に,超サイヤ人2はそれ以前からほのめかされていた悟飯のポテンシャルを示す上で必要な設定だったと思っているが,3は完全に絵面のためだけに編集部の横やりによって誕生したものだと考えている.

鳥山明,最後の抵抗とその名残

ここまでいかに原作者が超サイヤ人という設定を持て余していたかが良く分かる.

さてここからが「鳥山,超サイヤ人嫌いなんじゃないか論」の根拠になる部分である.

唐突に再フォーカスされる悟飯

それまで悟空やベジータが話の中心だったのに,老界王神の力を借りて再び主人公としての活躍を見せる悟飯.この時の姿,ご存知の通り超サイヤ人ではない

wikipedia情報だが,パワーアップした悟飯が負けたのは「連載中の人気投票で超サイヤ人3が1位だったから負ける展開にせざるを得なかった」とのこと.

つまり超サイヤ人3にデカい顔させないための展開だったのに,人気投票で負けたからやむなく後退させた」ということだ.

・「超サイヤ人なんて邪道じゃ」

老界王神が自身の能力開放能力で悟飯をパワーアップさせたときに発したセリフだ.もうなんていうか,この発言が当時の鳥山明の代弁であることは確実だと思う.

元々悟飯主人公となって活躍することが予定されていたブウ編

でも無視できない読者,編集,TVのスポンサーの意向よって,ブウ編になっても描かされ続けた,超サイヤ人主体の強さのインフレ,戦いの連鎖

当時のそういった情勢に対する鳥山のささやかな抵抗がこのセリフに見て取れる.

理想の設定,超サイヤ人ゴッド

2013年に公開された映画「神と神」では,悟空が新たな対戦相手「破壊神ビルス」に対抗するために,新たな設定「神の気」を使う,

超サイヤ人神(ゴッド)

という形態に変身する.身なりは普通の悟空よりも華奢な体型になり,髪色こそ赤だが,髪型は通常の悟空と一緒だ.

実はこの形態でビルスと戦っている最中,たびたび悟空は普通の形態に戻ってしまう.超サイヤ人でも何でもない普通の黒髪の悟空だ.

だが不思議なことに普通の悟空に戻った後も,ビルスと互角に戦い続けるのである.このことについて鳥山と作中のビルスの発言をすり合わせると

「アレは悟空が神の気を自らの体内に取り込んだ状態である.ビルスとの戦いの後,無駄に気を消費する超サイヤ人2や3ではなく,普通の状態で戦うことの方が合理的であると気づいた.もう2や3に変身することは無い.

という旨が語られている.

この設定,悟空が超サイヤ人にならなくてもいい理由を作っているようにしか見えない.何年たっても超サイヤ人は,鳥山にとっては周りの言いなりでやってた頃の仕事の象徴なのだろうと,どうしても勘ぐってしまう.

DBは鳥山にとって「昔の仕事」

突然だが,大人に成って久しぶりに友達に合って

「中学の頃やってたあの面白かったギャグやってよ」

って言われたら皆さんは喜んでやるだろうか.やるかどうかは別として,絶対にやりたくないはずだ.

大物作家の苦悩をこんな例えに置き換えるのは失礼かもだが,鳥山明にいつまでも「ドラゴンボールやってください!!」「新しい超サイヤ人考えてください」って仕事を振るのは,本人からしたらこういう感覚を覚えるのかもしれない.

ルーカス,富野由悠季,大友克洋.

鳥山に限ったことでは無い.大物作家は皆,いつの時代も「昔の仕事」の固定概念,レッテルを張られてモノづくりを続けてきた.

人より大きな想像力と創作意欲を持って生まれたからこそ,その大きな可能性で様々な表現に挑戦したがる,それが作家という生き物だ.

大友克洋が「SHROT PEACE」のインタビューを受けているときに言っていた.

「下手な原画を直してるだけなんて,仕事をしているのか直しているのか分からない」

「新しい企画を出すたびに蹴られる,みんな『AKIRA2』をやってほしいんでしょ,やらないけど」

「新しいことをやりたくて仕方がない」



人は変わる.生きているその時々で挑戦したいこと,活躍したい場所は同じじゃない.彼らが直面する問題は意外と誰にでも当てはまることかもしれない.

まとめ

「鳥山明にとって超サイヤ人は,『操り人形』だったころの象徴なのでは?」
というテーマで語ってみた.

連載当時,そして連載後の超サイヤ人の動向から,DBに対する鳥山明のスタンスが見て取れるのは本当に面白い.

最後の方は少し脱線気味だったが,言いたいことは, もうそろそろ鳥山をDBから解放してあげてもいいんじゃないかと筆者は考えているということだ.ではまた.

王位継承戦では「チーム戦」がしたい,根拠はヒソカ対クロロ【ハンターハンター】

中々連載が再開されない「HUNTER × HUNTER 」.春先に再開されるかと期待したがそんなことは無かった.きっと構想を練るのに時間がかかっているのだろう.きっとそうだ.
今回は絶賛連載中(?)の「王位継承戦編」を通して冨樫義弘は何がしたいのかを考えてみる.見てて退屈という意見も多いこの章.しかし,序盤で導入されたヒソカvsクロロ戦と,この章のテーマの関係を考察してみると中々面白い.

本記事は考察記事である.少々長めになるので暇な人だけ目を通していただきたい.

 

展開の特徴から見る「継承戦編」のテーマ

・他の能力者をサポートする能力の登場

・勢力が乱立

・徒党を組んで戦う登場人物多数

登場人物の所属や新しく登場した念能力の新要素などに着目すると,王位継承戦では大体このような特徴がみられる.これらの要素を総合的に考えるとこの章で冨樫義弘がやりたい展開がおおよそ分かってくる.

ズバリ,能力者同士のチーム戦である.

少し脱線,「ハンターハンター」という漫画の大前提

いきなり「冨樫のやりたいことがどーのこーの」言ってしまったが,今一度ハンターハンターという漫画の立ち位置から整理したい.

他の漫画でもそうであるように,ハンターハンターもいくつかの大長編から物語が構成されている.

・ハンター試験編 ・ゾルディック編 ・天空闘技場編

・ヨークシン編 ・G.I編 ・キメラアント編 ・会長選挙編

・王位継承戦編(暗黒大陸編とも)

読んでいれば分かることだが,各長編ごとに物語の作風がまるで違うことがこの漫画の大きな特徴である.

・ハンターハンター = 冨樫版ジョジョ(分かってる人は飛ばして)

各長編ごとに作風が違う,これどっかで見たなとは思っていた.そう「ジョジョの奇妙な冒険」である.というより恥ずかしながら最近アニメで放送されるまで見たことなかった筆者が,ジョジョを観て気付いたことである.

スタンド能力,死んで初めて発動する能力,無意識の能力制限

「なるほど,HxHってのは冨樫にとっての『僕が考えた最強のジョジョ』だったんだなぁ」と改めて思った.漫画に出てくる要素的にもそうだが,各章ごとにオムニバスになっている点も恐らくジョジョから影響を受けている.厳密にはHxHの場合,世代交代まではしないものの,各章ごとに主人公と呼べる立ち位置の登場人物が一定せず,実質的なオムニバスとして描かれるのが特徴である.

そしてオムニバスという方式がどう都合がいいかというと,その時々で漫画家がやりたい展開,描きたい物語を描けるという点において都合がいいのだ.先ほども述べた通り,このHxHは長編ごとに作風がかなり違う,そして主人公も長編ごとにとっかえひっかえされる.それは全てオムニバスとしてこの漫画を進めていくために冨樫がジョジョから盗んだシステムなのである.

つまりHxHとは,
冨樫のあーいう話が描きたい,こーいう話が描きたいというビジョンを叶えるために作られたジョジョ風オムニバス漫画なのである.

「そんなの他の漫画でも一緒でしょ,みんな描きたいもの書いてるに決まってんじゃん」


と反論したくなる気持ちも分かるが僕が言いたいのはそんなことじゃない.HxHでは,各長編ごとに明確なテーマが描かれ,それが一本の独立した作品として完結しているということである.

例えばグリードアイランド編は,「戦いとは駆け引きである」ということがテーマの短編作品として見ても完成しているのだ.
HxHの割に王道といわれるこの長編だが,少年漫画に特有の単純なドンパチは描かれず,戦う相手との相性や場所,適材適所なオーラの使い方など「駆け引き」が重要な展開が描かれた.特にビスケという登場人物が説く駆け引きに重要な「考える瞬発力」「下準備の重要性」などはこの章を象徴する考えであるとともに,社会に出た私たちに痛いほどに響く論理なので一読の価値がある.

なぜ「継承戦」のテーマが「チーム戦」といえるのか

話を戻す.と言ってもこれに関しては最初に述べた通りだ.王子直属の衛兵,派遣された雇われハンター,ヤクザ,旅団内の派閥,もう徒党言って良いほどに登場人物同士がチームを組んでいる.

またその展開を最大限に面白くするために設定されたであろう「ジョイント型」などの他の能力者と協力することで真価を発揮する能力者の登場.

もうこの章では冨樫がチーム戦を描きたいことは確実である.

だがこんなことは最近の展開を読んでれば分かることである.本記事ではそんなことはどーでもいい.本題は継承戦で描かれるこのチーム戦というテーマを端的に表す展開を直前に挿入していたことである.

そう,ヒソカvsクロロ戦である

ヒソカvsクロロ戦といえばHxHファンであれば長年待ち望んでいたであろう世紀の対決である. だが「暗黒大陸に行きましょう」とか言ってる最中に唐突に差し込まれたなぁと感じている人も多いのではないだろうか.実はこのタイミングで差し込まれることには重要な意味がある.

この対決そのものが,後に出てくるチーム戦の重要性を説いているからである.

戦いそのものが伏線だったヒソカvsクロロ戦

「能力にはそれぞれ一長一短がある」
「能力者はそれを工夫で補う」
「戦う相手や場所を選んだりチームで戦うことが凡例だ」

(34巻・p27,28)
-クロロ・ルシルフル

つまり「チームで戦うこと,能力の弱点を他の能力で補うことが戦いにおいては合理的だ」ということである. クロロはこの発言の後,言葉の通り旅団員の様々な能力を組み合わせ,ヒソカをボコボコにして見せた. もう気付いていると思うがクロロのこの発言がこの章のテーマそのものなのである.

そしてこの一連の展開が本編である継承戦の前に差し込まれる意味.それはヒソカvsクロロ戦が本編のテーマの要約であることに他ならないのだ

・ヒソカvsクロロ戦に見る,映画的な倒置構造

話の本編に入る前に,その物語の主張や主題を象徴する展開をアバンに挿入するという手法は映画作品などでよく見られる.

制作側の意図が視聴者に暗示されるとともに,見返した時にアバンの展開そのものが伏線として機能し作劇場の美しさにもつながるという代物である.

つまり,「今からこういうテーマの話やるよ~」と最初に言っておき,

話が終わった後から見返すと,「なるほど確かにその通り」だったという倒置法のような話運びなのだ.

尺が短く,出来るだけセリフなどで作品のテーマを表現することを避ける映画では,テーマとなる展開を最初に持ってくるという手法がとても効果的である.

冨樫は要するにこれを漫画でやりたかったのだ.そしてこれをやっていい大義名分が冨樫にはあった.ヒソカvsクロロ戦という皆が見たいカードをここまで温存していたからである.「ヒソカvsクロロ戦,どうせ皆見たいだろうし,この機会に使わせてもらおう」と切り札を切ったのだ.

つまり,
・作品テーマ(チームの合理性)の主張
・映画的構造の展開
・ファンサービス


これら全部をヒソカvsクロロ戦を通して冨樫はやってのけたのだ.


もうなんていうか,相変わらずやりたいことをやりたいようにやってんだなぁって感じだ.

・クラピカとの対比構造

そして面白いのが,二人の戦闘が終わった後に差し込まれるクラピカの展開である.

人差し指のイルカを初めて使うとき,師匠イズナビとの修業時代の回想が入る.「重要なことなので2回言う」といわんばかりにクロロに続いて師匠もチーム戦の重要性を説き始める.大注目なのはこの後のシーンだ.

「それでも....だからこそ一人で戦い抜く力が欲しい!!」

クロロの合理主義に対し,

結局ヨークシンでの戦いの後も仲間を失いたくない気持ちがぬぐえず,「一人で戦いたい」と理想主義を貫くクラピカの対比が描かれる.


チームの合理性が説かれた後に,仲間の為に一人で戦うことを望むクラピカの悲痛な思い.王位継承戦編・序章はここまでがワンセンテンスなのだ.

・昔流行った「共闘説」

二人の戦いが連載してた頃,「共闘説」というものが流行った.

「クロロは旅団の仲間に協力させて,ヒソカをリンチしていたのではないか」という説である.

正直これが本当だろうが憶測だろうがどうでもいい.

どちらに転ぼうがクロロが仲間の力を組み合わせ旅団というチームとしてヒソカを迎え撃ったことに変わりはない.


だが面白いなぁとは思った.テーマであるチーム戦ともリンクするなぁとも思うし,「いやそのリンチを一人で出来るってのがクロロの念能力を強みでしょ」ってのを忘れてこの説を猛進している人はセンスが無いなぁとも思ったし.

まとめ

ということでヒソカvsクロロ戦から,冨樫が映画的な倒置構造を用いて「チーム戦の合理性」というテーマを描いているのでは?について考察してみた.映画かぶれの僕の憶測でしかないので分かんないけど,継承戦は話が進むにつれてどんどんチーム戦が攻略のカギになるのではないかと考えている.

さらっと今後の予想を述べてみると,現時点でチームを組まずワンマンプレイしてる奴はヒソカと同じ結末をたどると思う.僕の考えではヒソカvsクロロ戦は今後の展開の暗示だ.細かいキャラの動向は覚えてないけどマチ,フランクリンあたりはヤバイかも.

あとノブナガの能力は確実に人と組むことにで真価を発揮する能力になります.てか昔からそんなようなこと言ってたか.ではまたの機会に.