【超サイヤ人は邪道】鳥山明は超サイヤ人が嫌いなのか

「超サイヤ人なんて邪道じゃ」- 15代前の界王神

僕はこのセリフを漫画で見たときから「鳥山明は超サイヤ人が嫌い」なのだと信じてやまない.

これに関しては完全に僕の憶測でしか無いのだが,超サイヤ人という存在が,若き時代の鳥山明にとってある種コンプレックスになっていたのではないかと考えている.

なぜそう考えるのかまとめてみた.

超サイヤ人は「言いなり」の象徴

鳥山明は連載当時,ドラゴンボールを早く辞めたがっていたことは有名な話だ.噂でも都市伝説でもなく紛れもない事実だ.

結論から言うと,周りにあーだこーだ言われながら操り人形のように描くのを嫌がる原作者をしり目に,長期化する連載の大きなファクターとなっていたのが超サイヤ人なのではないかと思うのである.

結構最初の方から辞めたかった

意外と早いうちから鳥山が想定した物からはかけ離れた物語になっていた.

初期の頃のユーモアあふれる修行編も,少年漫画界に新たな旋風を巻き起こした天下一武道会もすべて編集部からのテコ入れの産物だったようだ.

アニメ「ドラゴンボールZ」の「Z」は「早くDBを終わらせたい」という作者の願いでアルファベットの最期を持ってきたという逸話もある.

そして戦いと強さのインフレの連続の末に誕生したのが超サイヤ人という設定だ.この頃になると,サイヤ人は青天井的に強くなるという,いかにも長期連載に便利なギミックまで盛り込まれ,原作者の辟易が伝わってくる.

超サイヤ人が登場したこの辺から,急加速的に展開の飛躍,強さのインフレが起こったことはだれの目にも明らかだ.

超サイヤ人主体の後半戦

そんな設定的にもビジュアル的にもカッコいい万能薬が出てきてしまうと,当然ながら少年たちが見たがるのはこの金髪ガチムチの活躍だ.そして編集部もこの機を逃さず鳥山に要請しただろう

「超サイヤ人を出せ」

ここから先はもう説明するまでもない.

激動のセル編

結局「人造人間の設定は何だったの?」って思ってしまうくらいに,孫親子とベジータ親子の大運動会に発展したセル編

この頃になると戦いとあらば必ず変身といわんばかりに,標準状態で超サイヤ人が出てくるようになる.「超サイヤ人としての強さがさらに限界を超える」というクダリが延々と描かれた印象しかない.いったい何回限界を超えるのだろう.

だが,フリーザ編あたりからほのめかされていた悟空の息子・悟飯の天才設定が上手く使われ,後の世代交代に繋がる流れは中々上手くやったものだと思う.この時にもキーワードとなったのは超サイヤ人だったが…



行き当たりばったりの魔人ブウ編

どうにかセル編ラストを上手く調理して,世代交代の話に話に持ち込んだ魔人ブウ編.新たな主人公・悟飯の活躍が描かれるかに思われた.だが結局読者の反応は芳しくなかったのだろう.

しばらくすると死んだ親父の悟空がしゃしゃり出てきて,超サイヤ人3という,作劇場全く必要のない設定を持ち込み息子の見せ場を全部かっさらっていった.結局最後まで超サイヤ人が云々カンヌンをやりながら物語は終わる.

だが「いいなりでは終わらん」という原作者最後の抵抗が見られたのが,このブウ編後半の展開だ.詳しくは後述.

個人的に,超サイヤ人2はそれ以前からほのめかされていた悟飯のポテンシャルを示す上で必要な設定だったと思っているが,3は完全に絵面のためだけに編集部の横やりによって誕生したものだと考えている.

鳥山明,最後の抵抗とその名残

ここまでいかに原作者が超サイヤ人という設定を持て余していたかが良く分かる.

さてここからが「鳥山,超サイヤ人嫌いなんじゃないか論」の根拠になる部分である.

唐突に再フォーカスされる悟飯

それまで悟空やベジータが話の中心だったのに,老界王神の力を借りて再び主人公としての活躍を見せる悟飯.この時の姿,ご存知の通り超サイヤ人ではない

wikipedia情報だが,パワーアップした悟飯が負けたのは「連載中の人気投票で超サイヤ人3が1位だったから負ける展開にせざるを得なかった」とのこと.

つまり超サイヤ人3にデカい顔させないための展開だったのに,人気投票で負けたからやむなく後退させた」ということだ.

・「超サイヤ人なんて邪道じゃ」

老界王神が自身の能力開放能力で悟飯をパワーアップさせたときに発したセリフだ.もうなんていうか,この発言が当時の鳥山明の代弁であることは確実だと思う.

元々悟飯主人公となって活躍することが予定されていたブウ編

でも無視できない読者,編集,TVのスポンサーの意向よって,ブウ編になっても描かされ続けた,超サイヤ人主体の強さのインフレ,戦いの連鎖

当時のそういった情勢に対する鳥山のささやかな抵抗がこのセリフに見て取れる.

理想の設定,超サイヤ人ゴッド

2013年に公開された映画「神と神」では,悟空が新たな対戦相手「破壊神ビルス」に対抗するために,新たな設定「神の気」を使う,

超サイヤ人神(ゴッド)

という形態に変身する.身なりは普通の悟空よりも華奢な体型になり,髪色こそ赤だが,髪型は通常の悟空と一緒だ.

実はこの形態でビルスと戦っている最中,たびたび悟空は普通の形態に戻ってしまう.超サイヤ人でも何でもない普通の黒髪の悟空だ.

だが不思議なことに普通の悟空に戻った後も,ビルスと互角に戦い続けるのである.このことについて鳥山と作中のビルスの発言をすり合わせると

「アレは悟空が神の気を自らの体内に取り込んだ状態である.ビルスとの戦いの後,無駄に気を消費する超サイヤ人2や3ではなく,普通の状態で戦うことの方が合理的であると気づいた.もう2や3に変身することは無い.

という旨が語られている.

この設定,悟空が超サイヤ人にならなくてもいい理由を作っているようにしか見えない.何年たっても超サイヤ人は,鳥山にとっては周りの言いなりでやってた頃の仕事の象徴なのだろうと,どうしても勘ぐってしまう.

DBは鳥山にとって「昔の仕事」

突然だが,大人に成って久しぶりに友達に合って

「中学の頃やってたあの面白かったギャグやってよ」

って言われたら皆さんは喜んでやるだろうか.やるかどうかは別として,絶対にやりたくないはずだ.

大物作家の苦悩をこんな例えに置き換えるのは失礼かもだが,鳥山明にいつまでも「ドラゴンボールやってください!!」「新しい超サイヤ人考えてください」って仕事を振るのは,本人からしたらこういう感覚を覚えるのかもしれない.

ルーカス,富野由悠季,大友克洋.

鳥山に限ったことでは無い.大物作家は皆,いつの時代も「昔の仕事」の固定概念,レッテルを張られてモノづくりを続けてきた.

人より大きな想像力と創作意欲を持って生まれたからこそ,その大きな可能性で様々な表現に挑戦したがる,それが作家という生き物だ.

大友克洋が「SHROT PEACE」のインタビューを受けているときに言っていた.

「下手な原画を直してるだけなんて,仕事をしているのか直しているのか分からない」

「新しい企画を出すたびに蹴られる,みんな『AKIRA2』をやってほしいんでしょ,やらないけど」

「新しいことをやりたくて仕方がない」



人は変わる.生きているその時々で挑戦したいこと,活躍したい場所は同じじゃない.彼らが直面する問題は意外と誰にでも当てはまることかもしれない.

まとめ

「鳥山明にとって超サイヤ人は,『操り人形』だったころの象徴なのでは?」
というテーマで語ってみた.

連載当時,そして連載後の超サイヤ人の動向から,DBに対する鳥山明のスタンスが見て取れるのは本当に面白い.

最後の方は少し脱線気味だったが,言いたいことは, もうそろそろ鳥山をDBから解放してあげてもいいんじゃないかと筆者は考えているということだ.ではまた.

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